3月7日から開催 「3.11から10年」企画展・主要展示物の写真集

写真00、「3.11から10年企画展」案内チラシです。本企画展へのご照会は、当ホームページ問合せメールにて、ご一報願います。
企画展チラシ
写真1、「3.11から10年企画展」展示会場は、白河市大工町31(以下大工町展示室)に設けました。
 原発災害情報センターは、本来、白河市白坂三輪台247に建屋を構えているのですが、諸般の事情により、使用できずにおります。やむを得ず、東電福島第一原発事故後の重要な10年という節目の年の当「3.11から10年」企画展をここ大工町展示室で開催する次第であります。
区画展示室正面口
当展示室は、入口全面ガラス張りです。写真10の豊田直己氏写真が表通りからガラス越しに見えます。是非、玄関をお入り下さい。
写真02、
メイン資料
1991年、双葉町は、原発を町民に浸透させるため、小学生に原発歓迎の標語を募集しました。優秀賞に表賞された標語でした(2分の1縮尺で模倣)。40年経過した2011年、原発は放射能飛散の爆発を起しました。原発が、自死者を導きました。酪農家が誰の壁に残した絶筆です。
写真03、双葉町
双葉町
 原発立地町の双葉町が受けた原発の洗礼でした。原発が爆発したため、避難しました。町が撮った地雲・津波のつめ跡と放射能災害で捨てざるを得なかった住民の姿です。
写真04、富岡町
富岡町
 富岡町も原発(福島第二原発)を誘置していましたが、幸いにも原子炉冷却ポンプ1機が生き残ったため、爆発を免れるました。町は津波の襲来で、漁港・常磐線富岡駅が破壊されました。その上に、第一原発の放射能が及んだため、全町避難しました。
写真05.06、白河市民の被曝げ軽減活動。
暮らしの会1  暮らしの会2
福島第一原発ら80km離れている白河市にも、放射能が到達しています。市民グループ「白河しらくの会」が、農産物など食材の放射能汚染被害の実態を学習し、市民啓蒙の活動で、食事からの体内被曝の軽減を訴えました。
写真07、白河市、
暮らしの会3・白河市
 ① 白河市に起った土砂崩れと歴史遣産白河小峰城の城壁の崩壊が起りました。余談ですが、この10年の間に小峰城壁は、再建されました。そして、この再建で培かわれた城壁石の復元技術が九州熊本城の再建の見本とされいます。
 ② 白河くらしの会活動:白河市内の空間線量率の経年観測図・2011年からの7年間記録されました。
写真08、鹿児島県(川内原発)、茨城県・千葉県・栃木県(子ども健康調査)
仙台原発・関東子ども
 ① この10年の間に、鹿児島県川内市(せんだいし)原発の再糘動反対の裁判闘争の市民運動を招介しています。
 ② 福島県内子供の甲状腺がんが2020年6月現在で246人に及んでいます。甲状腺の罹患者は福島県以外の県にも出ています。茨城県・千葉県・栃木県の市民は、「関東子ども健康調査支援基金」を設立し、自費で、甲状腺がんの早期発見のために活動を行っています。
写真09、タイベックスーツの代用として使われた雨合羽・女性用外作業帽子・ゴム手袋・マスク。
 タイベックスーツ代用合羽
 提供者は、双葉町にある双葉厚生病院の医療スタッフ。この方は、4km先の原発が爆発を起こした最中、入院患者の治療に当っていた。しかし、原発放射線が病院に襲いかかっていることに思いも寄らなかった。突然、タイベックスーツに身を固めた自衛隊員が「避難しろ」と、病院スタッフに告げて、現れたと言う。病院内は「絶対安全」の神話の下にあったため、タイベツクスーツは備られていなかった。代用防護服として当てられたのが雨合羽であり、この種の合羽が使われた。
(※注:一度使用したタイベツクスーツは、放射能汚染物で、強制廃棄の義務に縛られいます。故に、代替してます。)
写真10、写真ジャーナリスト豊田直巳氏の原発事故被災地写真
 豊田直巳氏写真
豊田氏は、原発事故後の取材に奔走された。写真02の自死者絶筆写真も同氏の撮影。原発放射能がもたらして悲惨が映し出されている。牛乳を捨てさせるれる酪農家。飼い主亡失で、餓死した駝鳥。タイベックスーツ姿の除染労働者・等々

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です