「3.11から10年」企画展を開会しました。因に、毎日新聞社と福島民報新聞社が取材に来てくれました。
第1日日の今日は、午前10時に浅川副理事長の司会に始まり、佐藤理事長が本企画展開催の意義と抱負についての挨拶を行ないました。
その後、遠藤一孝氏より、故郷富岡町の思いでと、津波で壊れた生家が原発事故の放射能で汚染されたために、再建の道が大変難しい状況であることに悔しさを話されました。話しの最後には、其れでも何時かは古郷に戻りたいのだと締め括られました。
次に午前の部として、フィンランド国営放送が製作した、原発事故に見舞われた福島の事故後7年目~8年目を取材したドキュメント番組「Takaisin Fakushimaan」を上映しました。同番組では、東電原発事故の規模の大きさ、事故処理の進捗状況・放射能降灰の被災者の状況を双葉町の「原子力明るい未来のエネルギー」の標語立案者の今・浪江町の肉牛農家の被災牛と伴に生き抜こうとしている姿・富岡町の青年が親に寄り沿い故郷富岡の再生に掛ける姿そして、汚された海が8年後の今では魚が食べられるまでに放射能の影響が低減していることを伝えている市民の海洋調査グループの活動を招介した上で、原発の事故が起きた原因は、東電が取って来た事業姿勢と国の原発政策の誤りにあることを指摘して締めくくられていました。(「Takaisin Fakushimaan」をインターネットで見るには、https://areena.yle.fi/1-50447205 にアクセス)
午後の部では、事故当時双葉高校で教便を取っていて、現在は全国を駆け巡って、原発事故被災者の実態を訴えている松本佳充氏から、話しを頂きました。
教師だった経験から、2500人を上回る高校生がサテライト校舎に入らざるを得なかったり、グラブ活動の用具が放射能に汚染されたために避難先に持ち出せずにいたら、泥棒に盗まれていた。とか、教科書もない状況で生徒は授業を受けざるを得なかった状況などを話なされました。
松本氏は、家系図と家宝に残されていた記録から、浪江町で代々300年続いた農家の生まれで、教便を取りながら農家の経営を行っていたそうです。原発事故には、原発と2.7kmしか離れていない所で遇い、7.5kmしか離れていない自宅から避難のため離れて、6回もの引越しを締り返して、今は、郡山市内に住んでいると話してました。浪江の自宅は事故直後は、200μSv/時もの高い汚染を受けているため帰還出来る可能性はない。事故後暫くして、自家用車が汚染されたことに気付き東電に補償を要求したら、交渉の初期には補償すると言っていたのに、いざ、車両確認の段階に入ったら、車を自宅から持出したので汚染されていても補償しない。と態度を変えて補償を渋るなどで、東電が不誠実極りない会社であり、増して、放射能降灰の加害者が被害補償の額を決めるという態度を取っていることに大きな義憤を話されていました。重ねて、東電と国が原発立地町には事故発生の通報を入れたが、協定を結んでいたにも関わらず浪江町・川内村・飯舘村に一切の事故発生通報をしなかったという事実を話されました。
司会の浅川副理事長、主催者挨拶をする佐藤理事長
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菅野さんへ。写真に付いている松本さんの名前の文字が違ってます。直せるなら直して下さい。あるいは訂正を付けられたら、それでも良いと思います。